十字架上の7つのことば
                                                                      2014 6/3



   1. 「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ23:34)

   2. 「まことに、あなたに告げます。あなたは きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ23:43)

   3. 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」 「そこに、あなたの母がいます。」 (ヨハネ19:26、27)

   4. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 (マタイ27:46、 マルコ15:34)

   5. 「わたしは渇く。」 (ヨハネ19:28)

   6. 「完了した。」 (ヨハネ19:30)

   7. 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」 (ルカ23:46)



  ●  十字架上の7つのことば:

  キリスト・イエス様の十字架こそ神の愛です。十字架上で、御子イエス様が語られた7つのことばの中にこそ、あらゆる神の恵みがあります。


  1. 「34  そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」 人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」(ルカ23:34)

  これは十字架上の1番目の言葉であり、左右の罪人と共に十字架に釘でつけられた時、初期の最も痛みのひどい時に、ユダヤ人とローマ兵のためにとりなしを祈られた所です。この時代のユダヤ人指導者らは 「にせ預言者」の手下、ローマ兵とは 「反キリスト」の手下であり、敵の中の敵です。彼らは「原罪」、すなわち、「良し悪し(直訳)の知識の実」による、「神の立場に立って善悪を規定する性質」が強く入っています。(これらの罪は、終末のときに典型的に現れ、再臨の主イエス様ご自身が直接さばきをなされます。)

  イエス様は、39回のとんでもない”ローマ式鞭打ち”によって、すでに全身は裂けて血だらけになっていて、さらに 手足を釘で打ち付けられました。しかも没薬(鎮痛効果がある)を拒否されました。この、最も痛みのひどいときに、とりなしを祈られました。これこそ、イエス様が「神の子」であることの証明です。(痛み、苦しみがひどいときには、ののしりの言葉しか出てこないのが普通です。(ヨブ3:1−))
  「敵を愛する」、「迫害する者のために祈る」(マタイ5:44)ことは、「神の子」としての品性の現れの頂点です。それゆえ、御父は、御子の十字架の死に至るまでの従順とへりくだりのゆえに、彼を全ての分捕り物と共に天の全ての王座の上に引き上げ、世々限りなく続く全てに勝る栄光をお与えになりました。
  今の時代も、私たちが罪を犯して、イエス様に痛みを与えるときも、イエス様は 変わらず とりなしてくださいます。

  また、このような主の品性(「御霊の実」(ガラテヤ5:22)を結ぶ、「キリストに似た者になること」 = Christ−like−ness)が、私たちの最終目標です。それは、「聖霊様の中を歩むこと」=「Walk in the Spirit(KJV)」によってのみ可能です。(ガラテヤ5:16) 聖霊様の臨在の無いところにいるならば、臨在の強い環境へ移動することも一案です。



  2. 「43  イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」」(ルカ23:43)

  このように主が語られる前に、片側の 十字架につけられた罪人は、『イエス様、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。』と、信仰をもって語った言葉への答えでした。この罪人は、反対側のもう一人の悪口を言った罪人をいさめたうえ、罪を悔い改め、驚くべきことに、イエス様が神であり、御国の王であり、そして、十字架の後に復活することを、なにもかも「信じて」こう言ったのでした。
  (マタイやペテロは遠く離れていたので、「 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44)のようにしか聞こえませんでした。)
  この救われた罪人は、イエス様が死なれた後に、ローマ兵によってすねを折られたので、まだ生きていた、すなわち、新約時代の最初の救われた人物となったのでした。

  そして、「救い」は、「行い」によらず、「信仰」のみによることの、また、人はどんなでも(赦されない罪以外は)悔い改めれば赦されることの、典型的な証とされました。
  新約時代(=御子イエス様の十字架による、神との新しい契約 の時)は、「女の産んだ者たちの中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」(マタイ11:11)と主が言われるほど、十字架がいかに偉大なものであるかを表す、「恵みの時代」です。 罪を足がかりとして働く サタンの頭は、イエス様の十字架によって砕かれました。(創世記3:15)

  「きょう イエス様がパラダイスにいる」ということは、十字架の死後、よみの パラダイス側にいるということになり、パラダイス側から みことばを よみにいる霊たちに宣言されたことを意味しています。(イエス様が死後、地獄を体験されたのではない)



  3. 「25  さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹(サロメ、使徒ヤコブとヨハネの母)と、クロパの妻マリヤ(小ヤコブとヨセの母)と、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。
     26  イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。
     27  それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。」(ヨハネ19:25−27)

  この箇所は最も難解だった箇所です。 主は、なぜ わざわざ十字架の上で、ヨハネに肉の母をゆだねることを語られたのでしょうか?ヨセフはかなり初期の段階で地上にはいなかったとされています。それにしても、十字架にかかられる前にあらかじめ言っておくことはできなかったのでしょうか? 他の十字架上の言葉の重要度と比較して、謎の残るところでした。

  ただ、最近、この時の状況を考え、次の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」との関係にポイントがあると気がつきました。
  使徒ヨハネは、「ボアネルゲ(雷の子)」と主に言われたほど激しやすい性格で、またイエス様の「胸に寄りかかっていた」ほど愛された、側近中の側近の弟子でした。そしてイエス様の母マリヤは、「私の父母とは、主のことばを信じて従う者」の条件をも満たした、これもまたイエス様と特別に近い間柄でした。 そのため、自分も十字架にかけられる危険をも顧みず、主の十字架 ・・ 3メートルほどの高さ ・・ の真前にいて、主を見届け、主のことばを聞き取ったのでした。
  しかし、このイエス様のみことばにより、ヨハネはその場でマリヤを引き取って、エルサレムにある自分の家(ヨハネは割と裕福だったといわれる)に連れて行き、一旦 この場を去りました。それは、次のイエス様の言葉を直接聞かせないためです。 イエス様は、4番目の言葉の状況で、完全に「父と分離」され、完全な孤独を体験しなければならなかったのです。そのため、彼らとあまりにも親しかったため彼らにこの場に居てほしくなかったのでした。肉において来られたイエス様は、さまざまな点で普通の人間のように 感情を持ったお方でした。
  そしてこの時、ヨハネとマリヤは、主の大声の叫び「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が聞こえないような所にいたのでした。

  この後、ヨハネはしばらく経ってから、勇敢にも、再び十字架の真前に来て、小声で語られた、しかし、最も重要なみことば・・・「完了した」(ヨハネ19:30)を、ただひとり聞き取りました。マリヤはそのまま来ませんでした。 この時、マリヤ以外の女性たちが遠くに、そして、ヨハネ以外の男の弟子たちは恐れて全然遠くにいました。(マルコ15:40)

  「あなたの父母を敬え。あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12、第5戒)  他の使徒たちがすべて殉教したにもかかわらず、使徒ヨハネは マリヤを母として(経済的なものをもって)敬い、みことばの約束が成就して 100歳くらいまで長生きしました。(AD100年頃没)




  4. 「46  そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイ27:46)
   = 「34  そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マルコ15:34)

  さて、時は12時頃となり、3時頃まで太陽は暗くなり、あたりは真っ暗になりました。(これは日食では説明できない「奇跡」です。なぜなら、どんなに長い皆既日食でも、その継続時間は最大7分半程度で、とても3時間には及ばないからです。普通は数秒から数分。)
  イエス様は、この時、”くにの言葉”で、ヘブライ語(マタイ)とも アラム語(マルコ ← ペテロ)ともとれる大声で、「わが、わが、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 と叫ばれました。マタイも ペテロも 十字架からずっと離れた所にいましたが、このみことばは 聞き取ることができました。

  イエス様は、主なる神を、親しく「アバ、父」といつも呼んでいましたが、ここだけは、この一箇所だけ、「わが」と叫んでいます。 これは、御子イエス様が、全歴史の、全人類の罪を 身代わりに負った「罪人」として「神」から分離され、もう「父」との関係から切り離されたためにこう叫んだのでした。
  このことは、世の始まる前の、さらに永遠の昔から、また、この先 永遠まで、決して起こるはずのないことであり、それが、ここで起こったのです。御子イエス様は、天地創造のときも、それ以前の世でも、常に一緒に働かれた「父子神」+「聖霊」の形態を持った 三位一体の神でした。それゆえ、御子イエス様にとって、御父と、たとえ一瞬でも離れることは、他のどんなことよりも耐え難いことであり、ゲッセマネの祈りで血の汗を流すほどに、恐れられたことが、実に、このことでした。 それは、すべての人間の罪を背負って神から見捨てられる時の「自分のいのち((直訳)=たましい)の激しい苦しみ」(イザヤ53:11)でした。
  それは、イエス様が、本来 このように地獄へ切り離されていく人々の 身代わりになり、信じる人々を、御父との交わりの中に永遠に入れるためでした。
  もし信じなければ、人々は、この時のイエス様とまったく同様に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで地獄に落ちることになります。



  5. 「28  そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、渇く」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
     29  そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。」(ヨハネ19:28、29)

  十字架で血を流されたイエス様は、脱水状態で、耐え難い渇きを覚えられました。そして、このみことば、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには 酢を飲ませました。」(詩篇69:21)のゆえに、酸いぶどう酒を飲ませるのは 嘲弄行為だったと思われます。 生身の人間が、主に対してできることは、こんなことに過ぎないのです。

   「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。 私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
  主イエス様は、今日も、私たちのために、人々の救いのために、「私は渇く」と言っておられます。主の 救霊のご意志に答えるのは、聖霊様によるしかありません。イエス様が天に戻られ、信じる私たちに聖霊様が注がれ、腹から湧き出でるようになりました。



  6. 「30  すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「完了した」と言われ、首をたれて息をひきとられた。」(ヨハネ19:30)

  イエス様が、小さい声で言われたことは、マリヤを自分の家に届けてから 再び戻ってきたヨハネによって、聞き取られました。(その後の「父よ、わが霊を御手にゆだねます」は、大声でしたが、不明瞭で、ヨハネには聞き取れなかったと思われます。)

  この「完了した」とは、「テテレスタイ(ギ)、Τετελεσται」(The holy bible(Greek))で、商業用語(証書に押す判)であり、「(罪の負債を) 完済した」という意味になります。
  御子イエス様は、十字架の苦しみと敬虔のゆえに、人々の罪の贖いを完全に成し遂げてくださいました。御父は、これで良しとされたのです。信じる私たちは、ただ主の十字架の労苦によって、無条件に霊的借金を返済してもらい、悪魔の支配から、神の支配へと 買い戻されたのです。 同時に、訴えていた悪魔の頭は踏み砕かれました。
  この宣言は、1) 律法の時代の終焉、2) 信じるすべての人々の罪の贖い(=救い)の完了、また、3) 神のすべての計画の成就となったのでした。



  7. 「46  そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。」(ルカ23:46)

  医者ルカが口述によって筆記した元の人物は謎ですが、おそらく知的な人であり、イエス様の舌が上あごに付いて不明瞭となった叫びの声を、よく聞き取りました。 「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた」(マタイ27:50、マルコ15:37)のように、遠くでも聞き取れませんでした。

  イエス様の十字架の「死」の直前に大声で叫ばれた、7番目のことばです。 ここで注目すべきは、「よ」と、呼びかけのことばが元に戻ったことです。すなわち、「父なる神」との関係が、この時点で、完全に 回復したことを 意味しています。
  これは重要なことです。十字架上で、すべてのことを成し遂げられたことを意味するからです。 死後、よみに下られた時は、決してゲヘナを体験されたのではなく、すでに変わらない御子としての霊の状態で、ノアの洪水で滅ぼされた霊たちのところへ行き、みことばを宣言されました。(Tペテロ3:19、20) 御体という「神殿の再建」は、三日目の朝までに完成しました。





  ●  ユダヤの慣習・言い伝えを用いて証された イエス様が「メシヤ」であることの しるし:


   ・ 「イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が 上から下まで 真二つに裂けた。 そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。 そして、イエスの復活の後に墓から出てきて、聖なる都に入って 多くの人に現れた。」(マタイ27:50−53)

      ・・・・・  幕屋の至聖所の垂れ幕は、その厚みが15cmほどもあり(縦約10m、横約20m)、絶対裂けるはずのないものでした。しかも、「上から下へ、縦に」裂けたので、これは、「主」ご自身のおられる天からの しるしのわざであり、「律法の時代」の終わりを宣言するものとして あかしされました。

  この他に、たくさんのしるしが現れました。その中で有名でラビの文献に残っているといわれるものの一つが、アザゼル(レビ16:21、22、のろいを置いて放すヤギ)の角に赤い布が付けられますが、それがどういうわけか数日で白くなるというものでした。それが、イエス様の十字架の後からAD70年のエルサレム陥落までの間、白くならなくなった、というものです。


   ・ 「イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることを(バプテスマの)ヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」」(マタイ11:4−6)

    ・・・・・・・  当時、あまりにもラビたちができなかったので、これができれば待望の「メシヤ」である、という典型的なしるしとされていたことは、
   1) 盲人で なおかつ おしの人を癒すこと、 2) らい病人を癒すこと、 3) 4日経った死人を生き返らせること、 が挙げられています。イエス様は、それらをすべて行われました。
  当時は悪霊追い出しが流行っていて、悪霊の名前を聞き出して追い出すのがラビたちのやり方でした。そのため、「おしと つんぼの霊」の場合はできませんでした。また、きよめのやり方が詳しく書かれていたにもかかわらず、1回も らい病人が癒されたことがありませんでした。 (にせメシアが当時から多かったので、)このようにラビたちはイエス様を3段階に分けて見分けようとし、また民衆はラビの言うことをそのまま信じていました。 そのため、イエス様がわざをなさったことで、民衆は「ダビデの子だろうか」と言いました。「ダビデ」はユダヤ人にとって「メシア」を想起させる特別な名前です。

  したがって、ユダヤ人がこれらのしるしを見て、イエス様がメシヤであることが分かるように、特に福音書では記述しています。
   (* マタイは、イエス様をほぼ教師として見ています。そして、旧約から新約への変化を最も明確に表しています。)


   ・ 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)

     ・・・・・・・  当時ユダヤ人の間では、13歳で大人の仲間入り、異邦人からの改宗時、結婚、30歳でサンヘドリンの役職、王座に付く、イスラエルの教師の50歳になる、などの人生の節目で、”新しく生まれる”という言葉が普通に用いられていました。 ニコデモは教師のラビで50歳以上であり、30歳少しのイエス様の所に、へりくだって尋ねてきました。そして、50歳を過ぎてこれ以上、”新しく生まれること”がもはや無いので、「もう一度 母の胎に入って生まれるのか」という、それほど的をはずしていない質問をしました。また、当時の人々は、ユダヤ人として生まれたならば、自動的に天国に入れるという選民思想を持っていました。
  そこで、イエス様はこのように答えられたのでした。ここで、「水」とは「羊水」、「御霊」とはもちろん「聖霊様」です。この地上に命あるうちに信じて、聖霊様を受けて、その両方で初めて神の国に入れると言われたのです。


   ・ 「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ 父のもとに上っていないからです。私の兄弟たちのところへ行って、彼らに『わたしは、わたしの父 また あなたがたの父、わたしの神 また あなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(ヨハネ20:17)

     ・・・・・・・・・  当時の大祭司は、いけにえをささげる時に、至聖所へ行く前に、誰かが触るときよめ直しをしてから出直すことをしていました。 葬られて3日目(日曜日)の朝に、マグダラのマリヤは、復活されたばかりのイエス様に触れようとした時、大祭司として、このように言われました。

     「その日、すなわち週の初めの日(日曜日)の夕方のことであった。 ・・・・・・ 八日後に、トマスも彼らと一緒にいた。 ・・・ 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。・・・」」(ヨハネ20:19−29)
      ・・・・・・・・  ところが、八日経った後には、トマスに 御体を触らせています。これは、すでにこの時点で、「至聖所」である 父なる神のみもとへ、一度以上 行って来られたことを表しています。(その後で、使徒行伝1:9 のように、弟子たちが見ている中で、天に上られ、再臨の時まで見えなくなりました。)




  ●  告別説教の中の 神の三位一体:

  イエス様が十字架にかかられる直前にメッセージされた 「告別説教」(ヨハネ14章〜17章)の部分は、きわめて奥が深い部分です。そのなかでも、神の三位一体に触れたところを理解してみましょう。

   「しかし、わたしは真実を言います。 わたしが去っていくことは、あなたがたにとって益なのです。 それは、もしわたしが去っていかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。 しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
   その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
   罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
   また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたが もはや わたしを見なくなるからです
   さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
     ・・・・・・・・・・
   御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
   父が持っておられるものは みな、わたしのものです。ですから わたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」
                                                                        (ヨハネ16:7−15)

   「7  Nevertheless I tell you the truth; It is expedient for you that I go away: for if I go not away, the Comforter will not come unto you; but if I depart, I will send him unto you.
   8  And when he is come, he will reprove the world of sin, and of righteousness, and of judgment:
   9  Of sin, because they believe not on me;
   10  Of righteousness, because I go to my Father, and ye see me no more;
   11  Of judgment, because the prince of this world is judged.
   12  I have yet many things to say unto you, but ye cannot bear them now.
   13  Howbeit when he, the Spirit of truth, is come, he will guide you into all truth: for he shall not speak of himself; but whatsoever he shall hear, that shall he speak: and he will shew you things to come.
   14  He shall glorify me: for he shall receive of mine, and shall shew it unto you.
   15  All things that the Father hath are mine: therefore said I, that he shall take of mine, and shall shew it unto you. 」(KJV)


  ヨハネ16:14、15節がポイントです。 イエス様が天に上り、イエス様に遣わされた「助け主」である「聖霊様」が、「イエス様のものを受けて、イエス様の栄光を表す」ことによって実現します。それは、「御子」が、「御父」の持っておられるすべてを持っている事と同じです。(= ヨハネ3:35)

        
御父のものすべて → 御子のもの、   御子のうちにあるものすべて → (御子が天に上られた後)御霊が現す

  ここに、「神の三位一体」の深い意味と、「十字架・復活」 との関係があります。 地に降りてこられる方は、3つのうちの一つです。
                               ・・・・ 「われわれは、降りて(単数)、行って(複数)」(創世記11:7、18:21)

  (1) それゆえ、御子イエス様が天に上って行かれて、初めて、(ペンテコステを初めとして)聖霊様が全地に広く、激しく下って来られることになります。(旧約時代にも、局所的な 聖霊様の臨在は 部分的にありました。)

  (2) そして、主の再臨のときは、逆に、「完全なお方=イエス様」が現れ、「御霊の賜物はすたれ」ます。(Tコリント13:10) ・・・ ごく局所的には、今の時代も、イエス様が、また、ごくまれに、御父が(臨在の雲の形で)、現れることがあります。実際、「主の名によって2人、または、3人集まるところには、イエス様が共におられる」事がたびたびあります。(霊を見ることができる賜物の人による)
  続いて、「千年王国」で、御子イエス様が「王」として全地を支配されます。

  (3) 最後の敵が滅ぼされ、この天地が終わって、「新天新地」、「新しいエルサレム」になると、御子は御父に すべてを渡します。(Tコリント15:24)


  :7 「罪について」 ・・・ 原罪(=善悪を自分で規定する自己中心の性質)によって信じない、この誤りを世に認めさせます。聖霊のバプテスマによって、「意志」の分野を主にゆだねて、自己中心から神中心となり、主のみこころを行うことができるようになります。主の命令に聞き従わないことは 偶像崇拝の罪です。(Tサムエル15:23)
  また、「意志」は「言語」と近い位置にあるので、聖霊のバプテスマを受けると 多くの場合「異言」(=「新しい言葉」(マルコ16:17、旧約時代はいきなり「預言」だった)を語ります。
  罪の性質が濃かったクレテ人の人たちには、「聖霊のバプテスマ」が、「救い」の条件であることに近いように語られています。(テトス3:5、6)

  :8 「義について」 ・・・ イエス様のわざと言葉は、復活後、天の父のところに帰られることによって、イエス様が 「神の御子」であることが、「正しい(義)」と証明されます。「わたしが語る言葉によって信じなさい。さもなくば、わざ によって信じなさい。」 イエス様は、神の 第2位格のお方ですが、地上では ことごとく聖霊様により頼んで あらゆるわざを行いました。(ヨハネ5:19、20) それほど、地上において、聖霊様の 具体的なわざが重要ということです。
  実に、
御霊の賜物(Tコリント12:7−11)の働きによって、主の正しさが ことごとく世に証明されるからです。

  :9 「さばきについて」 ・・・ 十字架が この世を支配する者がさばかれる場所となり、復活によってそれが証明されました。敵はすでにさばかれ、さらに、終末の審判の事実が明らかになります。(終末預言・黙示録)

  「真理の御霊」は、新しいことを語るのではなくすでにイエス様のうちに在るもの、そのすべてを世に明らかにしてくださいます。




  ●  イエス様の公生涯における7つのしるし:

  (同じ「7」ということで、)ヨハネの黙示録よりも後に書かれ、聖書66巻(旧約39、新約27)の最後を飾る、ヨハネの福音書では、イエス様が行われた奇跡を 7つに代表させて記述しています。7は「完全数」。 (もちろんそれ以外になされたわざは 非常に多くて、世界中の図書館にも収まらないと注記しています。(ヨハネ21:25))
  このように、ヨハネの福音書では(他の共観福音書にある「たとえ」が無い代わりに)、御子イエス様がなされた「奇跡」の要素に焦点を絞っています。なぜなら、聖霊様による具体的なわざこそが、御子イエス様の「神性」のあかし(ヨハネ16:10)だからです。そして、主が昇天された後に下って来られた聖霊様によって、信じる私たちも イエス様と同じ、あるいは、それ以上のわざを行うことができるのです。(ヨハネ14:12)

      7つのしるし;
      1) 水をぶどう酒に変える奇跡 ・・・ 2:1〜12
     2) 役人の息子のいやし ・・・ 4:43〜54
     3) 安息日のいやし ・・・ 5:1〜18
     4) 5000人の給食 ・・・ 6:1〜15
     5) ガリラヤ湖上の歩行 ・・・ 6:16〜21
     6) 生まれつきの盲人のいやし ・・・ 9:1〜41
     7) ラザロの生き返り ・・・ 11:1〜45

        ( → (2) イエス様の7つのしるしについて )


  どのようにして使徒ヨハネが、イエス様の奇跡をこれらの7つに絞ったのかはいまだ謎ですが、(パウロ書簡などは初めからギリシャ語で問題ありませんが、)福音書の記述の中に、当時のユダヤ人の伝承が分かってはじめて分かるものが含まれていることは確かです。時代が再びイスラエルを中心とする流れに戻りつつあるので、”西洋神学(異邦人中心の置換神学)”ではなく、メシヤニックの立場から解釈する ”本来の読み方”が必要になってきていると思われます。

     (参考: 『ユダヤ的視点から見た メシヤの生涯』、アーノルド・フルクテンバウム)





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